封切り三日目。
席数224の【シャンテ-1】の入りは七割ほど。
当該館では珍しく客が入っておらず、
やはり内容が地味目な為かとも思ったり。
〔おとなのけんか(2011年)〕では
子供の喧嘩の後始末に
加害者と被害者双方の両親が乗り出したために、
却って収拾がつかなくなる始終を、
皮相な視点で描いた。
監督は『ロマン・ポランスキー』、
夫々の母親には
『ジョディ・フォスター』
『ケイト・ウィンスレット』
がキャスティングされたこともあり、
展開に呆れながらも、楽しく鑑賞した記憶。
ちなみに原題は〔Carnage〕と、
恐ろしくも寒々しいものだったが。
が、今回は、
そんな軽口を叩くわけには到底行かず。
なにしろ加害者は、高校で無差別発砲・爆破事件を起こし
十人を殺害、最後には自身も自殺したとの経緯。
被害者は勿論、彼に殺害された生徒の一人で、
なんとも痛ましくはあるものの、
アメリカ発のニュースではしばしば耳目にする内容。
そうした加害者と被害者の両親が、
他に何者も交えずに、教会の一室で向き合う。
何かしらが起きることは容易に想定され、
観客はコトの推移に固唾を飲む。
被害者家族については当然のこと、
加害者家族の心のケアも言い出されたのは本邦では最近との記憶。
両者に対しての心無い中傷や、
捻じ曲がった正義感をぶつけるだけの反応、
興味本位の報道も加えて、
どれだけ当事者を苦しめるかは想像に難くない。
キリスト教的な倫理感が根付く彼の地では、
それらは多少和らぐのかと勝手に考えていたら然に非ず、
遺体の埋葬を拒否する教会すら在ることが俎上に。
この国でも(用法が間違っているとの指摘はあるものの)、
「死んだら仏」との言いようはあり、
宗教者なら本来は率先し、向き合いを正すべきなはずだが。
もっともこうした言いようができるのは
自分が幸いにして当事者ではないからで、
とりわけ加害者の家族なら、その場に居るだけでも針の筵。
にもかかわらず両家が集ったのは
それなりの背景と決意があるに違いない。
時として静かな、時として激しい感情をぶつけ合い、
心中を吐露し合うことで
四人は少しずつ歩み合って行く。
評価は、☆五点満点で☆☆☆☆★。
どうした事情であれ、
子供が先に逝ってしまった時の親の喪失感は
底知れぬものがあるだろう、
ましてや、何の前触れも無く唐突に断ち切られたのなら。
親は自分達を責め、原因を探し、混乱し疲弊する。
しかしそれらは何れも、
「今となっては」言えるものであり、
真実は誰にも分らない、死人には口はない。
本作の原題は〔Mass〕で、
ここでは「大衆」の意味と捉える。
会話の中で、なかんずく琴線に触れたのは
世間的な一般論ではなく、子を懐かしむ純粋な想い。
鑑賞している中途迄は
加害者と被害者の家族をずっと逆に視ていた。
それほど両者の境目は曖昧。
結果示される僅かな光明は、
一時的なものかもしれぬ、
時間が経てば異なる思いが湧きだす可能性すらあり。
それでも二つの家族は
束の間の安息を得る。