RollingStoneGathersNoMoss文化部

好奇心の向くままどたばたと東奔西走するおぢさんの日記、文化部の活動報告。飲食活動履歴の「健啖部」にも是非お立ち寄り下さい

淵に立つ@チネチッタ川崎 2016年10月23日(日)

封切り三週目(当該館では九日目)。

席数107の【CINE1】の入りは八割ほど。


イメージ 1



亡くなった父親の後を継ぎ
街の小さな鉄工所を細々と経営する『鈴岡利雄(古舘寛治)』は
妻と小学生の娘と平穏に暮らしている。

そこに或る日、旧知の男『八坂草太郎浅野忠信)』が現われる。
『利雄』はさも当然の様に彼を雇い入れ、
あまつさえ家に同居させ一緒に暮らしだす。

娘も『八坂』を慕い、妻も朴訥な彼に好感を持ち始めた矢先、
ある事件が起き、それと同時に男は姿を消す。

事件後八年、警察の捜査の網にもかからず、
興信所を使い調査をするも『八坂』の行方は杳として知れない。


なんとも後味の悪い作品で、
暫らく振りに観ていて気分が重くなった。


確かにこの監督、映画的表現は頗る上手いのだ。

冒頭のものの五分で、結婚してから十年ほど過ぎ、
幼い娘が居る家庭の状況を
最小限の会話で描いてみせる。

勿論、これとは違う家もあるだろうが
大方の夫婦であれば、ああ、と
思わず納得してしまうのではないか。

まあ、もっとも、食事の場面こそが
家族の現状を端的に表現できるのは、
過去の幾多の映画でも証明済ではあるけれど。


愛情が無くなったわけではないが、
妻は空気も同然、一緒に家庭を守って行く同士に似た存在。

一方、娘は、自分の遺伝子を継ぐ愛すべき存在。

そこに押し寄せた大きな波が
家族をどんな方向に変えるのか、
監督はかなり冷徹な視線で描写する。


ではあるものの、本作が
所謂、日本的な家族のカタチを描いたモノだとは
自分にはあまり納得できない。

例えば、伝聞を含めて、自分の頬を打擲するシーンが何回かある。
これって、我々の回りで見聞きしたことある?
西洋的な仕草じゃない?


或いは事件後、妻の『章江(筒井真理子)』が極度に潔癖になり、
あかぎれするほど手洗いを繰り返すエピソード。

これなんかは、『マクベス夫人』そのもので、
自分が犯した罪への恐れの現われでしょ。


また、子蜘蛛が母蜘蛛の身体を喰らい成長する寓話。
これも、我々は生まれながらにして原罪を背負っており、
因果が巡ることのメタファー。

実際、親が犯した罪を、言葉だけでなく
自身の命で償う場面もあるわけで・・・・。


キリスト教的な倫理観・世界観の範疇で生きている人こそ
本作の登場人物達が取る数多の行動は理解し易いんじゃないか。


評価は、☆五点満点で☆☆☆☆。


そしてエンディングに至るまで、
何の啓示も明らかにされない。

互いに秘密を抱えない夫婦なんているのか。

夫婦はお互い以外に愛情を寸分も持ってはいけないのか。

親の罪は子が贖うべきなのか。

イマドキに見えて
実はひじょうに古風な家族のカタチが
改めて語られているのではないだろうか。