封切り三日目。
席数226の【SCREEN5】の入りは八割ほど。

古くからある命題を、本作は改めて
観る者の鼻先に突きつける。
観る者の鼻先に突きつける。
大きな罪を犯した二人と、
過ちを犯した二人が登場する。
過ちを犯した二人が登場する。
前者は国家による制裁は終了しても、
その遺族にとっては何ら留飲が下がるわけではない。
その遺族にとっては何ら留飲が下がるわけではない。
失われた命は二度と戻らない。
ここで頗るおかしなことが出来する。
自分の罪に真摯に向き合う咎人ほど
深く懊悩する事実。
深く懊悩する事実。
自身が反社会的な行為をしていても
それを何ら気に掛けない人間はこの世に多数存在する。
それを何ら気に掛けない人間はこの世に多数存在する。
本編でも、それは対極的に描かれているように。
実際にそういった類の人々が
世間に蔓延っているのも今の世間ではないか。
世間に蔓延っているのも今の世間ではないか。
考えて見ればいじめの問題も同様だろう。
受けた側は忘れないけど、した側は記憶の片隅にさえたぶん残っていない。
どちらかと言えば、対象となる側だった自分は良くわかる。
昔の仕打ちを、改めの謝罪する人が居るなんて聞いたこともないし。
その意味で、この作品は
救済があまりにも無いことで、観ていて
どうにも胃がきりきりと痛んで来る。
救済があまりにも無いことで、観ていて
どうにも胃がきりきりと痛んで来る。
鑑賞する側に相当の忍従を強いる。
しかしその悩みの先には、僅かに救いが見えることも指し示される。
それは暗闇に微かに見える光明のよう。
評価は、☆五点満点で☆☆☆☆★。
「あの 少年A だった。」との惹句にふれると、正直
「どの 少年A よ」と思わぬでもない。
「どの 少年A よ」と思わぬでもない。
これだけの年月を生きていると、匿名性を帯びさせる表現として見聞きした回数も多く
かなり手垢が付いていると感じる。
かなり手垢が付いていると感じる。
『中森明菜』の〔少女A〕のようなニュアンスか。
しかしここでの「少年A」はあくまでも特定の個人を指す。
本来的には匿名性を表す言い回しが、
何時の間にか特定の個人を指すものに変容している。
そして事件から二十年を経た今でも
彼の素行には様々な疑惑の目が向けられる。
何時の間にか特定の個人を指すものに変容している。
そして事件から二十年を経た今でも
彼の素行には様々な疑惑の目が向けられる。
嘗て世間を騒がせたセンセーショナルさを背景に
人々の興味を掻き立てるのは単に好奇心のみか。
人々の興味を掻き立てるのは単に好奇心のみか。