封切り二日目。
席数224の【SCREEN1】は満員の盛況。
いくつかの印象的なフレーズが言葉と文字で繰り返される。
一つは「箱男を意識するものは箱男になる」。
もう一つは「ひとつの町に箱男は一人しか要らない」。
「箱男」の存在は自明であるようだ。
それを裏付けるように、劇中では何人もの「箱男」が登場し、
うち主要な三人の男は、一人の座を巡って肉弾戦を繰り広げる。
傍から見ていれば、はっきり馬鹿々々しくもある闘い。
そうまで執心して唯一の「箱男」になった男は何をするのか。
有態に言えば覗きであり、ここでも
「俺は一方的にお前たちを覗く」とマニフェストし、
観察し記録に残すことに邁進する。
やはり脱力の度合いが激しく、もう笑うしかない。
例えば『江戸川乱歩』の〔屋根裏の散歩者〕や〔鏡地獄〕のように
覗き見ることが犯罪に繋がったり、
自身から特殊な閉鎖空間に入ることで狂気に陥ったりと、
劇的な展開は本作では起こらない。
いや、ある種の狂乱になっているとも言えるか、
殺人らしきことも起きている、と。
が、何れもが模糊としている。
一方で、同じ原作者の『安部公房』による〔砂の女〕で描かれた、
匿名性や不在、または帰属についての問題意識は共通と感じる。
場と女性に囚われてしまうのも同様に。
書くという行為は象徴的に繰り返され、
しかし記録は複数の「箱男」より書き加えられ改竄され、
最後には誰によって紡がれた物語りなのかもあやふやに。
記憶や主客(ここでは本物と贋物)の境界も曖昧となり、
観ている側は、本当に起きたことなのかの確信さえも揺らいでしまう。
言葉での表現より、映像化の力だろう。
評価は、☆五点満点で☆☆☆★。
箱を被っていれば本物で、被っていなければ贋物なのか?
「箱男を意識するものは箱男になる」とのフレーズを象徴するラストシーンで、
見る・見られるという自他の関係を我々は再び意識させられる。
「箱男」が被る段ボールに開いた覗き穴は、
何故あの形をしていたのか。
第四の壁を打ち破る仕掛けも、
監督が観客の感性を信用していないことの現れともとれる
最後の科白は不要に思える。